もしもあなたが真実を愛するならば、まず何よりも虚偽に通じなければならない【福田和也】
福田和也の対話術
■ユーモアという知恵
ミスティフィカシオンと云ったって、実際にはどのような形で示せばいいのか、と疑念をもたれるかもしれません。いくつかの実例を挙げてみましょう。
韜晦(とうかい)というのは、例えば虚偽を虚偽として云うものとして理解していただけばいいのです。そして、その虚偽の云い方にユーモアがあればなおよろしい。あるいは皮肉でもいいのです。
例えば、誰かの趣味の悪い服をケナす場合に、本当に趣味が悪いなあ、と云う人は少ないでしょう。それに、そう云ったところで相手は単純にあなたに反発をしたり、下手をするとその無様な服をあなたが羨(うらや)んでいる、などと勘ぐられてしまいます。
ケナすのならば、きちんとケナさなければならない。傷つけるのならば、きちんと傷つけなければならない。それにはどうすればいいのか。
一旦ホメて、よい気持ちにさせておいてから、それが心にもない称賛であることを相手に気づかせるのです。
どう見ても有名なブランドの服を着ている人に、いや、とてもお似合いですね、一体どこでお求めになったのですかと聞いて、相手がシャネルで買ったと答えれば、え、まさかとは思ったのですが、シャネルをこんな着こなしをする人がいるとは思わなかったので、とか。
そうすると相手は、自分が一旦あなたの言葉を素直にとったことにたいして、憤(いきどお)りを感じてしまうのです。つまり感情が、直接的な批判にたいする反発ではなく、簡単にいい気になってしまった自分への怒りとして内面化されるわけですね。こうなると、なかなか簡単には、立ち直れない。
こう書くと韜晦というのは、単なるイジワルのように聞こえますが、皮肉というのは往々にしてそういうものなのです。
あるいは、これは私の体験ですが、こういうやりとりがありました。イタリアでのことです。これも食事の会であった婦人が、そんなには悪気はなかったんでしょうが、ある種のエキゾチズムから、私に、日本人はもう刀を腰にはささないのか、と尋ねてきたのです。私は日本人を野蛮人扱いしやがって、と怒りましたが、またここで怒鳴り返しては、本当の野蛮人になってしまうので、このように答えました。
「いやいや、さすがにこの頃は、日本も近代化してきましたから、土日は帯刀をしなくてもよくなりました」と。そうして、刀の作法などをもっともらしく話していたのですが、しばらくして席を移ると、私の話を他の人にしたらしく、その女性はその話し相手から大いに笑われていました。私に騙(だま)されていたことを知るとともに、自分の無知をさらした女性は、憤怒にみちた目でこちらを睨(にら)んでいましたが、なかなか愉快でした。怒鳴り返すより何倍も痛快な仕返しをしたと思います。
その上この状況は、第三者から見ると、おかしくて仕方がないもので、つまりはユーモアがある。